2月6日(火)               入院その2へ 
 朝、娘はいつも通り。妻に弁当を作ってもらうことをあてにしている風でもなく、妻が即席に作った野沢菜混ぜご飯?をサランラップでおにぎりに握って持っていく。さすがに妻は見かねて弁当箱のタッパーにおかずを詰めて持たせる。娘が玄関先で靴を履いている最中に渡すといった離れ業をいつものようにさらりとやってのける。見事という他はない。列車発車まで後数分! 駅まで走って何分か?「お父さん、今日入院するからね」と、言うと「うん」と応え、いつも通りあわてながら学校へ出ていった。
 10時までに病院へはいるとのことを告げてあったので、あまりにもぎりぎりすぎるのも困ると思い、結局8時35分の列車で行くこととした。両手いっぱいの荷物をを持って駅に向かった。母親が入院の時は私が運転していったので、車は実に楽であることがしみじみと分かる。入院先には車は持っていけない。妻がいることがなんと頼もしいことか。それにしても、妻は強い!自分としては何となく(一貫して)冷静にさらりと言ってのけたつもりが、妻は病気のことをきちっと受け止めているし、私以上に回復を願ってくれている。
 病院について外来で待っていると、内科病棟の看護婦と思われる方が案内(付き添い)してくれた。部屋に入り身支度(病院服に)してから応接コーナーで入院中の生活のことについて看護婦から説明を受けた。
 夕方、回診の時、B医師の他一人を伴ってきたA主治医から、症状について説明を受けた。やはり、直腸ガンだそうだ。妻は悲しそうであった。私はいずれ来ると覚悟をしながらの人生であったので、これからのことはともかくも、今は現実として覚悟と客観的な受け止め方を持って聴いた。「今後、肛門にあまりにも近ければ人工肛門をつくる。転移等があればまたいろいろと治療に当たる。いずれにしても今は精密な検査を待たなければ何ともいえない」とのことであった。明日、今後の治療について具体的に説明してくれるそうだ。来週の木曜は面談日になっているのでその時に詳しく検査結果を基にした手術等のことなどについても話をしてくれるとのこと。手術はそれ以降ということらしい。
 食事は、入院した時にとった唯一の昼食が最後だった。今後は食事をストップして腸を休ませるそうだ。腕の静脈から1500ccの栄養点滴が始まった。この点滴では血管が細くてあまり栄養はとれないとのことで、明日、心臓に近い肩の太い静脈にチューブを入れ、そこからの点滴で体力維持のための栄養を摂るそうだ。何と人間は精密機械なのだろう、とつくづく思う。ふと、不安がよぎった。
 妻は、母が入院している近くの病院へ寄っていくということで,母に私の病気のことを告げるつらさを背負って・・・夕方6時頃帰った。
 結婚以来、辛い役回りはいつも妻がしてきた気がする。母のことだからまた例によって母流の人を気遣いながらもよけいなことを言うことが多いので、妻にはまた辛い思いをさせることになりはしないかと心配だ。「無理して来なくてもよいから、まずは娘も含めて健康を害さないように、気に病んで病気にならないように...。まして、8日は娘のスキー授業の日だし。」と言ったが・・・。
 上司のW氏にも電話で経緯を連絡。(入院が決まってからは、職場のことは全て放り出してきた分,w氏が私の分までこなしてくれている)W氏にも私以上に心配とご配意をいただいている。それにしても本人以上に心配をしてくれる人が回りにたくさん居てくれる。幸せなことだと今更に思う。

 この病院は、なかなかしっかりしていて、医者・看護婦・関係者等々、一見しただけではあるがとても人的にも物的にも行き届いている。空き室が無く、高い室料を払って個室に居るせいもあり病院にいる気がしない。不謹慎と思いながらも、まるでホテルだ。こんなことでいいのだろうか?とは思うが、今の時代このようにしなければ患者も寄りつかないと言うところか?
 しかし、郵便ポストが正面玄関を出た横というのは何とも言い難い。何故だろう? ちょっとした病院でさえ、例えば売店の横にあったりするのだが。ペット(点滴)を引きずって手紙をポストに入れにいった。正面玄関のところはカーペットなので,慣れない点滴台を持ち上げてのひと仕事であった。健常者の発想としてこういったことがたくさん世の中にはあるのだろうとつくづく考えさせられた。
 夜は早々にベッドに入った。少し枕が低いのでバスタオルをたたんで敷いた。朝方はやはり毛布だけでは寒い気がする。明日看護婦に言うことにする。

2月7日(水)
 砂時計のように時間がゆっくり流れていく。新聞やテレビで確認しなければ今日という日がただの通過点になってしまいそうだ。朝の検温は6時に約束したが確認がない。看護婦がまた尿をためる容器を持って来た。これで看護婦の勤務が代わるたびに4回目だ。どうなっているのか?
 9時30頃、I医師の回診があった。全員の状況を観ているようだ。「F市からですか、遠いところからですね。昨日入られたのですね。いろいろ検査がありますが頑張ってください。」と、励ましの言葉、何となく空虚に感じた。主治医ではないのでそれ以上言いようもないのだろう。10時20分に血圧測定と検温があった。朝6時の検温で36.4℃であると告げた。いろいろ症状を聞いて血圧を測っていった。144〜88であった、まあまあか。昼頃までは、晴れていたが午後から少し曇ってきて雪も降っているのか? 息子が幼い頃に,私も興味があり鉄道のミニチュアを買ってきて組み立てたりして息子と遊んだのを思い出した。この7階の眼下を、まるで模型鉄道のような様々な列車(JRの工夫の跡が伺えるようなカラフルな車両)が通過するのが実に面白い。2本の本線との交差のためか、けっこう分単位で通過していく。飛行機のニアミスほどではないが過密しているように思う。今は全て自動化されている時代だし、コンピュータが管理しているおり間違いはないのだろうが、果たして事故は?起きないのだろうかと心配になった。
 午後からは、各種検査。耳からの採血、大腸の直診、点滴用チューブの鎖骨静脈挿入、正常に入ったか確認のためのレントゲン、造影剤の注入(身体が一時熱くなる)によるCTスキャン(腹部)など。
 夕方、B医師が入院計画書を持って説明に来ていただく。外科にいくまでの一連の検査計画について説明があった。妻もいっしょに聴く。
  ※入院計画書内容  2/6
  ※病棟、病室 Y病棟000号室
  ※主治医、医師 A主治医、B医師、C医師
  ※病名 大腸ガン
  ※症状 下血
  ※治療計画 精査結果により治療方針を決定する
  ※検査日程 2/7 腹部CT
       2/9 大腸バリウム 胸部CT
       2/13 腹部超音波
       2/14 上部内視鏡
       2/16 下部内視鏡
  ※推定入院期間 4週間
牛乳を買って帰るのでと、6時
の列車で妻は帰る。本当に頭が下がる思いだ。病気にならなければよいが。若い頃、肺炎で1ヶ月入院したことがあるが、すぐに妻にも移って妻は実家で倒れたことを思い出した。
 尿は昼頃までは出が悪かったが、夕方一気に多めに出る。B医師から「糖尿病の治療薬も点滴に入っているので、毎日、血糖値を検査する」との追加説明あり。不安だったことがあたった。以前からめちゃくちゃな生活というか不規則な食事と食べ過ぎ飲み過ぎの天罰で、糖尿予備軍から完全に糖尿病初期患者となっていたのだ。ブドウ糖を一日1500ccも直接静脈から入れられるのでたまらない。完全糖尿病患者だ。それも重症の。インシュリン点滴が始まったのである。恐ろしい単位数である。後で詳しく判ったが、糖尿の患者さんが自己注射で打つ量は個人差はあるがそれでも1日に10単位以下。今、私が体内に一日に入れている量は確かなことは分からなかったが、すごい単位数であったと思う。この点は今も医者にはっきりと聞いていない。恐ろしい。
 夕方、上司のW氏から、仕事の関係の電話があった。早速、私が病院で内容修正したフロッピーを妻が持っていくことになった。妻に感謝! 後で関係職員のTさんが,マックの仲間にマックで読み取ってもらって内容を修正するとのこと、これまた感謝。以前にマック仲間4人と飲んだことを思い出す。果たしてうまくいくのか、祈るしかない。
 こうして隠れるようにしてコンピュータを打つのも何となく後ろめたいものだ。電気代のことだけなら交渉する余地もある。しかし、それなりに医者の論理を並べられればこれまた服するしかない。
 癒しのために音楽療法を取り入れている観点からいえば、私にとって四六時中、趣味と実益で友達のようにしてきたマックについて、それなりに逐一説明するなら何とか認めてもらえそうな気がしないわけでもないが、巨大な者を相手にするようでそれほどの気力も勇気もないときた。この辺が私の持って生まれた弱さなのだろう。これからも変わりそうにもない。看護婦にお願いしたところで「うまくやって下さい」くらいだろう。案の定、「規則ですので、見つからないようにうまくやって下さい」ときた。
 日本人が、癒しとか個人ケアーとか福祉とかいろいろ言ってみても全て形だけなんだと言うことがよく分かる気がする。(かなり強引な自己中心的発想) 逆に、電車の中ではペースメーカーの方などに重大な生命の危機をつくる携帯電話の使用禁止を呼びかけにしたって結局形だけにしか受け取られないから、ほとんどの人は無視している。福祉とか弱者に対する思いではなく、後ろめたさとか良心の呵責なる感覚で、携帯の電源を切るか、着信音がならないようにしている程度のことである。もちろん善人はいる。(私のこの反骨精神は何時までも直りそうにもない。)
 病院に入って、暇だとけっこういろいろなことを自分流(?)に考えるものだとつくづく思う。
 という訳で、ベッドに備え付けの上部にある癒しの為の音響(?)装置も、残念ながらアースが落ちておらず、ブーンといううなりの音とともに雑音まじりにFMが聞こええてくるのがせいいっぱい。これは患者さんの心の癒しではない。日本高度経済成長に伴う形だけの豊かさであり、実に象徴的である。

2月8日(木)
 今日は特に大きな検査はないが、血糖値が277。(正常値は70〜110)やはりけっこう高い。インシュリンを点滴に入れたりしながら調整するとのこと。人間は機械だなあとつくづく思う。
 それにしても、けっこう「暇」の処理に困る。結局、生来の貧乏性の性か?何かしていないと落ち着かない。
 午後になってようやく大部屋にベッドの空きができた。引っ越しを主任看護婦に告げられたので引っ越し荷物(?)をまとめる。知らないということは無駄が多い。いよいよ引っ越しとなったら、看護婦が手際よくベッドとテレビを全部移動した。ベッドの上に私がまとめた袋などを乗っけてベッドごとの移動である。
 私はきちんと全部出してきちっとまとめておいたのだが,考えてみればこれなら看護婦一人か二人で出来る。まさか私の荷物を両手にかかえて何人もの看護婦が大移動というのも何とも滑稽な姿だ。今まで何となく分かっていたことでもいざ自分のこととなるとどぎまぎしたり要を得ないものだ。引っ越しも無事完了し、4人部屋に居候(?!)。少し肌寒い感じがする。広いからだろう。向かいの若い方は、Macのノートブックを椅子においている。マック仲間だ! その内、自然と会話も生まれるだろう。余り積極的に声をかけていく気分にはならないで時はしばらくすぎていった。
 隣の方は、年輩のやさしそうな方。夕食の時、声をかけてくれた。「ありがとうございます。残念ながら手術後も含めて食事はとれないだろうと思います」と、お礼の言葉と説明をした。夜6時55分頃妻が来てくれる。毎日大変だろうに。申し訳ないやら、病気にならなければと心配しながらの感謝である。夕方、G市に住んでいる妹が来てくれたことを話した。体重が毎日1kgずつ減ってきて、今76.6kgとなったことや、このままで行くと単純計算で術後までには65kgになってしまうことなどを話す。さて、いかなることや。 19時に酸っぱい下剤を500ml 飲む。いつも思うが、まるでブドウ糖漬けだ。糖尿の悪化がさらに進行することを今更に(?!)心配する。医者に言わせれば、「こんな一時的なことで糖尿病になる人はいない。当然、糖が上がらなければ、それこそ異常。これだけで糖糖尿病が進行する訳ではない」と。何だかわかったような、わからないような説明だ。21時に下剤の錠剤を飲む。結局トイレには、20時と21時に言ってほとんど泥のような下痢があり、ようやく這うように寝ついた。妻は8時40分頃帰宅したらしい。トイレへの往復でいつ帰ったのかも分からなかった。私の誕生日には、ケーキの上にろうそくを立てて消すだけだけの誕生祝いをしてくれるとか。味わえるかな? 51歳の誕生日は病院で人生の折り返しオーバーホール。うまくいくとよいが。

2月9日(金)
 昨日は、下剤をかけた性もあるが寝付けずに夜10時までテレビを視聴。「渡る世間は鬼ばかり」は相変わらず次から次へとどこにもありがちな話を作ってはつないでいる。朝は下剤座薬を入れたが、もう出るものがないらしい。身体の方も仕方なく、出るものがないせいか血液を出してきた。看護婦に状況を話したら先生の指示でOK!がでた。大腸検査は辛いという記憶がある。誰かに何となく過去に聴いたことのような話を覚えている。最近は技術も進歩したからまあまあそこそこのことかと覚悟をしながらも若干たかをくくっていた。
 看護婦に胸からのチュウーブをはずしてもらい、かわいい小袋にチューブを丸め、一階レントゲン室へいざ出かけた。肛門から空気とチューブを入れてバリュームを流し込みバリューム(あとで分かったが、バリュームではなく、ガストロであった)を回転移動させながら細かく写真を撮るという若干時間のかかる検査だ。案の定、結構疲れた。何せ頭が30度位下になったり、身体をうつぶせ横反対仰向け等々、時間にして40分くらいの撮影を続ける。医者も大汗をかきながらの芸当(?!)。あれは患者も医者も大変だと思った。(医者は何回もあんな放射能を浴びて大丈夫なんだろうか?)思ったよりはバリュームの量も少なくガスとともに出た感じ。その後、若干腹が苦しい感じではあったが特に異常はなし。1時半からは待望の風呂に入った。気持ちよかった。午後は、胸のCTスキャン。
 隣の患者さんと、結構いろいろなことを話した。中でも,自慢の娘さんの話で、30才になるがまだ独り身ということでこぼしていた。夕方奥さんが来て、テレビを一緒に観てくれるようにお願いされた。親はどこの親も同じだと思った。グルメ番組のところで娘さんが登場するとのこと。ご両親から平等にもらった顔、といった感じの明るい子。私も仕事の関係でどこかでお会いしている顔だった。
 上司のW氏と入院中の母親に手紙を書いた。腸もようやく落ち着いてきた。地下のCTスキャン室の前で、検診に来ている年輩の方と話をした。検査に呼ばれた為、途中までの話にはなったが、その方の家の隣の叔母さんの人工肛門の話や腸のポリープを切った話など。結構ためになる話であった。久々にお風呂に入った。風呂場で年輩の方と話をした。やはり人恋しい自分がよく分かる。
 どの看護婦さんもお医者さんも関係職員みんな親切で思いやりのある方ばかりである。きっと、○○傘下の病院ということがあってか、対応は実に見事である。躾が行きとどいている。
 夜、家に電話したが、話し中。また、女の長話だ。結局あきらめた。夕方には母から電話が来た。心配なんだろう。(車イスを押して1階の電話ボックスからかけてきたらしい)
 
51歳の誕生日
 昨日のバリュームがやっぱり残っていた。朝も昨日の疲れかバリュウムの残量の性か、3時30頃から寝れずに結局4時30頃起きて食堂へ行った。同じ階の病棟から、亡くなった方が運ばれてエレベーターで搬送されていくのと出合った。死んだおやじのことを思いだした。人が、この世と言うよりは家族と永遠に分かれるということは辛いものであることを今更に思う。これまで自分が頑丈だと思って過ごしてきた生活が根底から崩れた今、こうして振り返ると、おやじの死で一番堪えているのは自分であったのかもしれないと思う。死というものを受け入れてきた自分、強く家族を守っていかなければならないという想いや、母のことを何とかしなければならないという焦りも手伝っての病魔だったのかもしれない。いずれにしても、これまでのとんでもない自分の不摂生には違いない。・・・と、思いをめぐらせはしていても、今切実なのはやはり出きっていないバリュームか。もっと水を飲むべきであった、と後悔しきり。固まって出てきたからたまらない。結局、肛門裂傷の感じ。仕方なく、看護婦さんに訳をいって座薬をもらった。ちなみにこの座薬、J肛門科病院と同じであった。これで妻にも効く?のではと思った。妻も痔だのだ。痛みが和らいだのは午後3時頃。先輩のK氏からわざわざお見舞いをいただいた。いろいろと話をした。彼は、退職後は○○に勤務することになったようだ。L氏のご紹介とおっしゃっていた。L氏もすでに70歳を超えるお年。何時までもお若いと思っていたけれども、自分も今日51歳だもの当たり前か、と納得。いずれにしても、私が中心に進めてきた件の方は一件落着か。いずれにしてもこうなったらただただ成功することを祈るしかない。
 文芸春秋が仕事上興味のある特集だったので買ってきた。こんなに本を読んでいる自分は何十年ぶりか。その意味でも充電できるといいが。でもこうしていつも目的的にしか生きていない自分が、ちといやになる。新聞も結局毎日売店で買っている。何とか運動しなければという焦りもあって、用事をつくっては歩いているがしれたもの。せいぜい1日300歩くらいか。今日は検査がないので、と言うよりは3連休なので中休み。看護婦も2人体制とか。テレビでショパンの生地やジョルジュ・サンドとのこと、ショパンコンクールのことなどが放映されていた。中身はいつも通り、商業ペースにのっとっての中身。さして目新しいものはなかった。まあ他の番組を見るよりはいいか。
 妻と娘が誕生日のお祝いに来てくれる。妻からは交換日記と花かご、娘からはブランド品の小銭入れとか。いつもなら、ケーキにビールにご馳走!。さしずめ茶碗蒸しは絶対あってほしい。「まあ、帰ってから一杯やってください。」 母からも電話有り。こうして、夫婦二人だけでない誕生日祝いも今年で終わりかな。東京の息子から、電話が何回かあったとか。やはり言わん訳にもいかないだろうな。

2月11日(日)
 病院からの空は青空と雲が同居。今日は若干寝汗をかいた。パジャマを着替えた。トイレで尿をとった。10日までといっていたが今日も置いてある。そういえば、「なんだかなんだかの検査」と言っていたが名前は忘れた。というより、「どういう検査」なのかは教えてくれなかった。聞く気もなかったが、看護婦さんが自分ではしっかり納得していて、患者に一生懸命学術説明をしていた感じであったのが妙に印象に残っている。妻が持ってきてくれた一週間のテレビ番組表が役にたった。売店の開くのが休日は9時からなので困る。と、勝手な言い分。雪で高速道路がストップしている。また大雪なのかな?此処にいるとさっぱり分からない。田舎での都会に住む人がやはり都会的になっていくのがよく解る。本当は都会がスモッグのおかげで異常気候になってきているのに・・・。斜め向かいの一番若い子(?)は無口。こちらからも特別には語りかけていない。病院に来てまで人に気を遣う必要はないのだろうが、今の若い子は本当にマイウェイというか個人主義というかよく分からない人種だ。昨日妻が持ってきてくれた娘のお友達のお母さん推薦の「キノコ」を水で溶かして飲んだ。癖もなく飲みやすい。「古梅霊し」は木の木っ端という感じで余り溶けないので飲みづらい。それでも片っ端から飲んでいる。命根性が汚いと誰かに言われそうだが、暇のなせる技。点滴が落ちるのが速かったせいか9時30分には無くなりそうになり看護婦さんがあわてて取り替えてくれた。「看護婦さんも重労働ですね」と言うと、「結構これって重いんですよ」「持っているときはそうでもないんですが、持ち上げると重いんですよね」さらに続けて、「電車に乗ると、夏は結構目立つんですよね。力こぶがついちゃって!」と、ちょっと恥ずかしそうにまた誇らしげに言いながら、力こぶをつくっている笑顔が何とも嬉しかった。職業に誇りを持って頑張っている子が此処にも一人居る! 幼稚園で妻が声が枯れても子供と一緒になって頑張っている姿とダブル。父母からの絶対の信頼がみかえりだ。でも妻はけっしてそんなことを期待などしていない。職業を通して巡り会った子ども達が好きで一生懸命に頑張っているのだ。そのことは、妻にとって自分を取り巻く人々へ気遣いや愛情を注ぐことと同質のものだろう。天分なのだろう。人が人を教育したりお世話をしたり接するということはこのことに他ならない。今の教える側の多くが持ち合わせていない課題かもしれない。自宅は雪かき日和なのだろうか?北国の人々はこの雪のおかげで損をしているのか得をしているのか?
 今、ニュースでは原潜との衝突事件をスクープしている。本当に悲しい事件だ。家族関係者にとってはやりきれない想いであろう。しかし、考えてみれば危険はどこにでも転がっている。ひょっとしたらこの事件は予想されたことであったかもしれない。
 今日は、午後から向かいのマック青年は外出(?)。斜め向かいの子は、奥さんか恋人か、けっこう居た。しばらく部屋を空けてあげたけど、しばらくして帰ってきても居た。側に居たいよな、そりゃ!。食堂で、相撲トーナメントを見たりなんだかかなり暇な一日であった。テレビのカセット(料金は後で請求されるシステム)がリセットで一日目に戻った。10日毎に精算しているためと思う。13日頃請求書がくるのだろう。13日の9時40分に入浴決定。午後は、超音波検査。12日の夜下剤を飲むことになっている。
 妻が17時50頃来る。保健関係書類持ってくる。いろいろ大変だけどしっかりやってくれている。きちっとやるところが本当にすごいなあと思う。とにかく金融関係というのは、入れるときは印鑑もいらないくらいのことを言うけど、出すときには2重にも3重にも面倒な手続きを要求する。まあ、当たり前なのだろうが、はじめにきちっと言ってくれたり、書類にこういうのがあるなんてのを提示する保険屋は皆無である。
 とにかく先生に書いてもらうことをまずしなければ。
 考えてみれば、単身赴任以来、毎日妻と話が出来たりしているのはこれが初めてかもしれない。夫婦が一緒にいることというのは実に大切なことだ。夜は、北条時宗を視聴したあと、眠れないのでN響アワーを見た。10時にはバチッとテレビが正確に消えた。なんだか寝付けなくてCDを聴いたりして横になっていた。看護婦さんが心配してくれて「睡眠薬を出しましょうか?」と言ってくれた。
 そのうちに眠れるだろう。でもビートルズを聴いていると(入院時に家からCDをごっそり持参していた)益々頭がさえてきた。逆効果であったか。

2月12日(月)
 いつの間にか寝付いたのであろう。それでも、2時頃トイレへいきたくなって行ったら、またもやバリュームが出た。これで最後のようだが! 7:00頃起きた。血糖値が237に下がっていた。看護婦さんは点滴が速いためだと思うと言っていた。確かに、インシュリンの効果も速いが。私は、信ずるものは救われるではないが、古梅霊芝とあのキノコの効果と思う。まあ、一両日様子を見れば判る。朝は8:05から弦楽四重奏団「ザ・ホイットマン」の演奏がBS放送であった。皆、アメリカ国籍だが、第一ヴァイオリンは台湾人、第二ヴァイオリンとチェロは日系二世。もう国際的視野で物事が進んでいくのは当然のようだ。妻が午後一番で来た。忙しいのになあ! 感謝の一言につきる。ゆっくり時が流れていくのを二人で過ごすのも本当に久しぶりのような気がする。朝まで一生懸命に書き物をしたらしい。他にも仕事があるだろうに....。帰ってからまた仕事なのかな。そんなに若くないのだから、無理しないでな。俺は暇だからなんかさがしてやっているけど、いずれにしたって今は責任のないことばかり。「ママは専業主婦ではないんだから、仕事が優先。健康には十分気をつけること」と。久しぶりに病院の一階喫茶店で妻とコーヒーを飲んだ。ちょっと濃いめの炭焼き風。(医者に内緒!)
 斜め向かいのSさんはそろそろ退院のようだ。今日も午前中早くに外出した。向かいのPさんは、午後外出。4:30頃、隣のEさんが奥さんと戻ってきた。妻は、娘に頼まれたのでデパートでお菓子を買ってくると言って出かけた。ついでにレコード店で息子が出演しているCDを買ってくるそうだ。今日は少し寒いかな。
 そろそろ保険の手続きや確定申告も書かなければならない。いろいろ大変だ。これも全て妻にやってもらわなければならない。私にもいつかはお迎えが来るわけで、妻にも共同作業をしてもらうよい機会かもしれない。
 6:40頃、妻は息を切らしたように買い物を済ませて帰ってきた。寒かったのと早く来なくては、と思って急いできたのだろう。息子が出演しているCDを早速二人で一部を聴いた。解説にも、息子の名前が載っている。これは早速、お世話になっている方々にに送らなければ、と親ばかちゃんりん。妻はいつもの列車で帰宅。今日もありがとう!
 夜、8時ガス抜きと下剤を、計5錠飲んだ。明日の超音波検査のためだ。「明日の朝に出る感じですか?」との問いに、看護婦は「Qさんならすぐ出るかもしれませんね」と。何せ腸が過敏だから。

      入院その2へ            

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