人工肛門閉鎖、そして・・・
【手術後、続編】        〜今〜

以後、糖尿病による血糖値とストマケアー、生活リズムの確率等々で闘いの日々となる。
 何日か後に、とてもとても車にはのれる状態ではなかったが,「少しは練習しとかなければ大変」と思い、車庫に突っ込んであった乗用車を出そうと試みた。とんでもないことになってしまっていた。高速道路の塩害も手伝ってタイヤのドラムがすっかり錆びてしまっていた。まったくタイヤが回転しない。仕方ないので何とか動くたった一本のタイヤで思いっきり車庫から引きずり出した。それからJAFを呼んで助けてもらった。でも、タイヤがドラムにしっかりくっついてしまっていた。何とかはずしていただいたが、走るなんて代物ではない。結局、金もないのに中古を買う羽目になってしまった。
 運転するための身体の体制が今ひとつ安定がとれない感じだったが、それでも何とか我慢して乗れるようになった。何せお尻が痛くて痛くてどうにもならない。痛み止めを飲んでいても局部の痛みを抑えるほど強い物ではない。
 ここまで回復したのだから贅沢など言ってられない。一時は死ぬかもしれなかった訳で、まして、今は一時的に人工肛門にしているが、いずれか取れるかもしれないのだ。頑張るしかなかった。
 あまりにもきちんと座れないので、円座を購入した。結構これが良かった。
 健康な時には思いもしなかったグッズである。苦笑した。

一時退院してからのいろいろなこと
…@ ストマのこと
  ・オートロックソフトフランジ57mm ・オートロックドレインパウチ57mm透明
   &不透明 ・バリアケアベルト ・アクアキーパー ・クローズパウチ ・パウ
   ダー ・リムーバー
 ストマをつけての復職はやはり無理である。いや、けっして出来ないことではないが,職場においても、自分中心の生活リズムが最低の勤務条件になってしまう。職場では足手まといになるか、いつアクシデントが起きるかいつも気にしながらの勤務であり,本業に力が入らないのは目に見えている。そんな葛藤を交えながら休職生活を過ごした。
 自分が休んでいても、妻と娘は通常の生活だ。せいぜい帰ってきた時に夕食が出来ていることの喜びを味わってもらうくらいしか自分には出来ることがない,というなんとも悔しいが。これも神のさだめ,自分が何とかこうして家族と一緒にいられることを家族中が感謝している生活のスタートである。とりあえずはこの状態を続けながら正常に戻すしかない訳で、それを無言のうちに家族中が期待しているのである。
 たんたんと砂時計のように時が流れてゆく。身体の状況は一進一退。落ち込み出すと止まらない。開き直ってみるがしょせん強がってのこと、いざ身体が言う事を効かなくなった時はそんな事かけらも思えないくらいシンドクなる,悲しい限りだ。でも、根っからの楽天家である。立ち直りは早い。おまけに見えっ張りというか人前ではけっして暗くならないと言うか、むしろ相手のことを心配するという性格。そこには、妻や娘にはそれほどに深刻な状況を感じさせないように立ち回っている自分がいる。ストマのケアーは突然に幾度となくやって来ることへの対応である。段々と慣れては来るものの、準備が実に大事なのである。周到な準備を頭の中で組立ながら、やはり恥ずかしく,しかも家族には現場を見られたくないという心理が働く。やはり病院の中とは違う。ひとりの病人がいるということはみんなが心配もし、気も使うものだ。ストマから便をトイレで処理することはさほど大変ではなくなった・トイレの中に折りたたみの椅子を入れてそこに座って処理する。問題は、ストマの取り換えである。家族がまだ起きてこない頃や、出かけたところを見計らって行うことがほとんど。
 だが、どうしてもすぐに処理しなければならない必要に迫られる時もある。
 
…A トイレのこと
 外出にはやはり公共設備が無いことがどうしても障害になってくる。それなりのトイレの所在を知っている所を頼らざるを得ない。車イスで入る身障者用のトイレでさえ、存在するが数は少ない。ましてオストメイトにはまだまだ不完全なトイレ施設である。身障者用のトイレに、背広で入った時は悲惨である。服をかけるところが無い。結局折りたたんで取っ手のところに挟むしかない。そうこうもたもたしているうちにストマが破裂したことがある。最悪なんてものじゃない。取り換え用は持っているものの、下着までは大げさと思い,持ち歩いていない時に限って事件は起きる。幼い頃に肥だめに落ちたことを思い出す。そのうちに便槽に落ちる夢まで見たことがある。腹の中に収まっている時には関係のないことなのだが、いったん外にでると自分のものでも始末に終えない。
 介護に携わっている方々に、心から敬意と感謝の気持ちを思うとともにこんなふうになってから自分中心に考えている自分を許してくださいと詫びたくなる。

…B 食事のこと
 とにかく人を見る目が違ってきた。今までは男性を見れば自分より素敵だなーとか、かっこいいなーとか、お金持ちみたいだなあとか、若者を見ればどうしてこんなカッコしているんだろう、親の顔を見たいとか、女性をみれば美しいとか・・・・。まあ、そんな程度の感じで,これまで、子供やお年寄り、弱者や身障者への振り向きはあまりしなかったのではないかとさえ思えてくる。なさけないが、せいぜい同情心くらいか・・・。今は、男性とか女性とか弱者とか・・・そんなんではなく、自分以外の人が、とっても幸せそうに「健常に生きているんだろうなあー」という,やっかみみたいな感じで見ているのである。
 昼時はもっと悲惨である。自分は,かっての自分のようには食べられない訳で、食堂に入って一人前を注文できるはずも無く、また食べたくなるようなよだれが落ちそうなおいしそうなものは、全てだめ。
みんなうれしそうに食堂の中に消えていく後ろ姿を見ながら寂しい思いに駆られる。生きている楽しみなんて何も無くなったような錯覚に陥る。食堂から出てくる人の手元が妙にお腹を満腹そうになでていることにさえ目がいくようになる。もうこうなると、食べ物しか頭になくなる。「これだもの糖尿になるよな・・・」と、つくづく思った。

…C 運転するということ、歩くということ
 痩せたせいなのか手術したせいなのかは分からないが、とにかくお尻が痛い。硬い椅子になんかとても座れない。そんな状態で運転?と思われるかもしれないが、まあ何とか運転はしていた。糖尿の事もいつも気にしている。今は食べられないから糖尿も影を潜めているが,いつか食べれるようになったら必ず再発することは火を見るより明らかなのである。それが糖尿病患者の「糖尿病が完治しない原因」なのである。「喉元過ぎれば熱さを忘する」とはよく言ったものである・・・。歩くしかなかった。20分以上連続して歩いて初めて脂肪の燃焼が始まるという。
 今から体力作りと規則正しい生活の習慣化を図らなければならない、という悲壮な決意もあった。車は言うまでもなく生活の一部。退院当時,車がとても
おっそとなく思った自分の気持ちが今は懐かしい。
 とにかくこんな恐ろしいものを運転しているのだという気持ちが芽生えたことは自分にとってとてもよかったと思っている。
 便利な道具が凶器になっては大変なことだとつくづく思う。

…D  買い物のこと
 デパートに時々行ってみる。あたりまえなのかどうか、女性がほとんど。子供連れのお母さんも多い。時間を潰しているという感じだ。夏は、家にいるよりクーラーが効いていて快適だ。「なるほど」と感心した。学生も多いのにはびっくりした。学校はどうしているのだろう?と思うぐらい沢山いる。期末テストとか臨休とか・・・いろいろ設定を考えてみるが、当てはまる状況ではない。退職したと思われる老夫婦(適切な言葉が思いつかないが、元気そうでけっして「老夫婦」のイメージではない)も多い。昼時になるとサラリーマンやどこかの店員さん風の女性も忙しそうにする感じで会場が一杯になる。人に酔いそうになるのでいい加減なところで引き上げる。たいした用事がある訳でもないので・・・。

…E  食事・炊事・洗濯・掃除のこと
 もともと母が共働きであったせいか、小さい時からきちんと躾けられた(?)こともあって食事を作るのは嫌いではない。ただ、奥さんに作ってもらうようになると面倒くささが先に立ってしまいいざ腰を上げるまでに時間がかかる。しかし、休職しているとなると始めから自分のスケジュールに仕事としてインプットされるので億劫さは感じない。家事も結構大変なものだ。朝作って食べて洗って、掃除して方付けして・・すぐ昼になる。昼を作って食べて・・・、すぐ夜になる。と言った具合である。自分の時間を作るというのは容易ではない。おまけにストマを処理したり取り換えたりといろいろ入ってくると本当にあっという間に一日が過ぎてしまう。少子化少子化で、年金を払えなくなる時代が来るという。昔の時代とは違う。家庭で専業主婦(主夫)の方の3歳までの子育てには、扶養手当とは別に現金で月に10万円ほど一律補助してはどうだろうか。その子に投資したと思えばこんな安い物はない。たかだか360万円だ。その子が大きくなって働いて年金を支えるようになったらその何倍もの価値がある。子供が宝というなら、結婚して子供を作ることに躊躇しない雰囲気や環境を整備することが大切。施設を作って女性が働きやすくしたところでそれだけで果たしてどうか? と思う。

…F  テレビのこと
 昼間のテレビは奥様向けだ。何かとても不思議な気がした。「いってきまーす」といって出かけていったご亭主。行き先は、テレビ局の奥様向け番組のキャスター、なんて感じで全てにフィルターをかけてみると本当におかしな感じが増長されてくる。昼間仕事をするということは究極的には、家での役割が逆転して互いのシュチュエーションを交代しているに過ぎないと思った。

…G  読書・新聞のこと
 北海道新聞と読売新聞、2社を購読していた。というよりは、病院で退屈しのぎに、一応のもっともらしい理由を付けて2社とったのがきっかけで、家庭でも家族に「新聞はいいぞ、2社を比べて正しい認識を持たなくちゃナ!」とか何とか言っちゃって、強引に2社を購読した。最近になって、とって付けた理屈も、まんざらあたっていないわけではないなあと感じるようになった。道新は、全国にソース網をもっておりかなりのニュースメニューがある。即応性も高い。前夜に起きたことなども、結構朝刊第一面に出る。その点で読売は一日遅れとなる。また、道新は地方紙だけあって地域ニュースも満載である。なかなか道新を切れない理由であろう。しかし、記事の扱い方や紙面全体に漂う新聞社独特の思想が強く歪んで見える気がするのも事実である。差し障りがあるのでその程度で止めておくが、多分読売をとっていてさらに道新もとっている方は、異口同音にそう思う方が多いと思う。「読売は全国紙だから」ともっともらしいことを言うつもりはないが。読売は、医療文学方面にもずいぶんと力を入れている、読みごたえのある新聞である。紙面を開くのが楽しみである。そこから受けるパワーも大きい。かといって週刊誌のような感じではなく即応性に優れたスタンスでシンポジューム等も掲載している。ニュースに対する中立性も高く、読者の判断を促す感じで示唆性に富んでいる。

…H  働かないということ
 働かないということのプレシャーは相当なものである。働けないと明らかにそういう状態であるならば、それはそれである。将来的なことやいろいろと考えての決断によるものではあるが、現実に働かないでいる毎日は結構きつい。それはまだこれから働ける力がみなぎっている証拠と思って甘んじて受け入れることにする。

…I  闘病とは(この部分は、2004年6月に記載)
 この部分を書いている今、起こってしまったことはあまりにも連続していて多かった。それだけ退院してからの時が流れたということでもある。妻の母が先日5月に急逝した。もともと晩年に発症した難病の高安病の延長上であった訳ではなく、あきらかに医者の誤診という感じの医療施設の対応不備によるものであると今でも思っている。今更母が戻ってくる訳でもなく、家族中,母がいなくなったことを現実として受け入れていることで今は時が流れていっている。義母は胃ガンでその年の1月に手術をしたばかりで、経過もすこぶるよかった。死因は胃の手術経過の悪化ではなかった。この手の手術で回復した方なら誰しもが疑うのは第一番目に腸癒着とか腸捻転、腸閉塞であるが、事実私も開腹したことで常に頭にあるのは腸閉塞と捻転であった。高齢者ならもっと深刻であるはずだ。結局、解剖してみれば死因は「腸捻転による閉塞」であった。何とも言いようがない。しっかりした(?)総合病院での出来事である。後で医療費を支払いにいった時に、最後に「お大事に」と言われて萼然とした。押して知るべしである。病院に殺された。妻のショックは大きかった。私の両親の死を看取ってくれた妻が今度は自分の母親をみとったのである。この世の無情を感じた。

 9月14日 縫合不全箇所完治を確認 腫瘍マーカー正常
 9月25日 人工肛門閉鎖手術のため再入院
   担当看護婦は,KさんとTさん
   主治医:M医師  医師:I医師、H医師
   看護婦長:Y婦長  主任:T看護婦
   看護婦:G看護婦(9月に別院から転任) 他 14名で私を担当してくれた。
        その中に、今年の4月から看護夫になったS君が立派になっていた。
       とてもうれしかった。

 9月25日 19:00下剤 ストマはどうするのか? インシュリン自己注射及び
       抗がん剤
       投与は今朝で中止
 9月26日 手術準備
 9月27日 3回目手術 回腸瘻閉鎖手術 順調に経過する。
 9月28日 大部屋にもどる
 9月30日 下痢が始まる。
10月 1日 下剤落ち着き始める。平熱に近い。傷は若干痛む。耳・目は診てもらう
       よう頼んである。
10月 3日 本日より水分摂取開始 抗がん剤投与開始 下痢止め等の投薬開始
10月 4日 採血 3分粥開始 朝、下痢激しい。(3日深夜から4日にかけて)
10月 5日 早朝、少々固形便 ガスのみで便なし 
        胃専門のN先生が夕方来て今後のことについて少し説明してくれた。
        「休んでいた大腸も、古い物(細胞)や大腸菌の入れ替わり、腸液、
        その他のものが出たようです。このあと、便が出るには何回かかかり
        ます。」
10月11日 強引に退院 以後は自宅療養  普通排便まで、2〜3ヶ月はかかるそう
       だ。

【瀕便について】
 予想はしていたが、ひどい状況が始まった。今更後には戻れない。人工肛門ではなくなったことはこれからの人生本当に良かったと思っている。M先生には心より感謝!しているが、手術にしてもその後の経過にしてもかなり悪い状況であったと、素人ながら感じている。若干、先生の感じ方(健常者)と違う点があることはやむを得ないことだ。励ましのエールと思っていつも前向きに聞いて実行してきた。
 そんなエール(?)がいくつか印象に残っているので紹介する。

○ 痛み止めを連用していた頃のこと
 「どうですか、まだ痛み止めは必要ですか?」と、食堂で妻といろいろ話をしていた時に言われた。つい、「いいえ。でも、先生なぜですか?」ととっさに尋ねたところ、先生は「癖になるからね。あまり長いと・・・」とおっしゃたので、次の日からすぐに止めると看護婦さんに言った。ところが、看護婦さんのRさんをはじめ、何人かの方が「いきなり止めないで、少しずつ減らしてはどうですか?」と言ってくれたので、いつも痛いということもあり、結局少しずつ減らすことにした。痛さの程度は、まったく座れないくらいの痛さで、常時立っていても寝ていても痛いのである。結局その痛さがとれたのは、2年後のことである。瀕便の時はさらに下痢のために、ただれが起きるのである。
これも痛い!

○ 休職を考えた時
 「休職が長いと、なかなか復職するのが気持ち的に大変だよ」と一時退院する前に言われた。これには、かなり迷ったが、結局は努力目標になった。現実的には人工肛門のケアーも含めて復職はできる状態ではなかった。このことは健常者にはなかなか解らないことと今でも思っている。妻にでさえ時々そう思うくらいだ。弱者は頑張るのである。だからその状態を見ると、健常者は期待や励ましも含めて頑張っていることが健常者のように見えるのである。だから身近で看病しておられる方しか気がつかないことなのである。
 私が復職したのは、人工肛門を閉鎖してさらに4ヶ月半後のことであった。

瀕便回数記録(人工肛門閉鎖9週間後からの)
朝食後 昼食後 夕食後 就寝前 前年比 週平均
6 1 3 4 2 2 12 12
7 1 2 1 4 2 10 11
8 3 4 1 2 2 12 11
9 1 3 1 2 1 8 10
10 2 2 3 2 1 10 9
11 1 3 4 2 1 11 11
12 0 1 0 3 1 5 8 10
13 1 1 3 3 2 10 8
14 3 2 2 2 1 10 10
15 1 1 1 3 0 6 8
16 3 2 3 2 2 12 9
17 1 1 5 3 3 13 13
18 0 3 3 2 0 8 11
19 0 1 3 2 2 8 8 9
20 2 2 3 4 0 11 10
21 0 2 1 3 3 9 10
22 0 1 2 2 0 5 7
23 1 1 3 2 1 8 7
24 0 1 2 1 0 4 6
25 1 1 2 1 1 6 5
26 1 1 3 3 2 10 8 7
27 0 0 0 2 2 4 7
28 2 4 2 1 0 9 7
29 0 1 3 3 1 8 9
30 1 3 1 3 0 8 8
31 1 2 2 3 0 8 8
1 1 0 1 2 0 4 6
2 0 2 2 3 2 9 7 7
3 1 2 4 4 1 12 11
4 0 1 4 4 0 9 11
5 0 0 1 2 3 6 8
6 1 3 2 2 0 8 7
7 0 1 1 3 0 5 7
8 0 1 0 2 1 4 5
9 1 2 3 2 2 10 7 8
10 1 2 2 1 0 6 8
11 1 1 2 1 0 5 6
12 1 1 2 3 0 7 6
13 1 7 2 2 0 12 10
14 1 1 2 3 0 7 10
15 1 2 1 1 1 6 7
16 1 2 2 6 1 12 9 8
17 1 1 1 3 1 7 10
18 2 1 2 2 1 8 8
19 0 2 2 2 2 8 8
20 1 3 3 3 3 13 11
21 0 4 2 2 0 8 11
22 0 3 1 2 1 7 8
23 1 2 1 4 2 10 9 9
24 0 1 3 1 2 7 9
25 0 2 2 3 0 7 7
26 0 2 2 1 1 6 7
27 0 1 1 1 1 4 5
28 0 1 1 3 0 5 5

 肝心の瀕便であるが、人工肛門閉鎖してからは、まるでミルク飲み人形であった。
9月27日に閉鎖手術をしてから2週間後の10月11日に無理やり退院した。理由は、夜、トイレに何回も起きることになり大変だったことだ。家にいた方がトイレは近いし専用で使える。強引に退院した訳は他にもあるが、結局痛みを抱えたまま退院した。いつ襲ってくるかもしれない止められない便意と闘いながら、電車に乗って家にたどり着いた道程は苦しかった。こんな感じで一生過ごすのかとさえ弱気になった。電車の中では、なりふり構わず顔はたぶん引きつっていただろうなと思った。急遽取り付けたウオッシュレット・トイレのおかげでとっても快適なトイレ生活となった。が、それでも毎日が瀕便との闘いであった。一時はトイレで死ぬのではないかと思った。24時間のうち15時間ぐらいはトイレにいた気がする。寝ている時だっていつだって関係ないのである。食べたら出始めるのだ。何せ、大腸を休ませていたのは7ヶ月間である。完全に腸液だけの世界であった「我が大腸君が蘇る」までには、休んでいた時間と同じくらいの時間が必要であった。でも、給料のこともあり、10月に退院してからは何とか2月には復職しなければととにかく頑張った。審査が大変だったのも記憶に新しい。
 結局、3月1日に復職したが、瀕便は平均5回から7回くらい。それに加えて2〜3日おきに訪れる下痢症状。そうなると、連続トイレで、落ちつくまでに12回くらいのトイレ通いとなる。それでも、職場での排泄状況を極力少なくするために、朝はできるだけ食べないようにして、昼もほとんど油処理料理以外のものを少しいただくぐらいの生活が始まった。それもよく噛んで時間をかけて食べるという、私が今まで生きてきた人生には一度もなかったとんでもない状況であった。ゆっくり食べないとガスが増えるのである。まだガスと便の区別がつきづらく便意を催す度にトイレへ行かなければならなくなり仕事にならない。おかげで体重は、健康時の20kg少ない状態までに落ち込んだ。ほとんど骸骨!である。でも、おかげで糖尿は影を潜めた。ヘモグロビンA1cが5.0パーセントである。富士山の9合目で止まったのである。しかし、そのような状況下でいろいろと調子が悪くなってきたところも出た。胸が痛いというか苦しいというか呼吸が苦しい感じがするのである。循環器で診てもらったが「酸素もきちんと行届いており、肺も異常なし、健康そのもの」と言われた。とにかく苦しいような気が常時しているのである。
階段などを登るのもしんどいくらいである。

※ 「富士山の9合目」:この言葉は開業医のK先生が私に解りやすいように話してくれた言葉である。糖尿病はけっして治らない。始まりは「山のふもと」であるから1メートル登るには相当な長い時間を要する。少しずつ少しずつ登ってきて気がついた時が例えば6合目であったとすると、麓にいた時に1合目に達する時間と、6合目から7合目に達する時間とでは全く違う。簡単に7合目に達するのである。ちょっとの暴飲暴食でいとも簡単に数値は上がる。まして9合目にいる時は一気に頂上だ。身体が回復すればまたその歩みを開始するかもしれないという恐怖はいつもある。痩せていることの方が長生きするのである。栄養不足では癌も進行しない。さて、食欲に勝てるか?何せ、インシュリンの自己注射には戻りたくないし、眼底出血で失明にはなりたくない。まして、合併症も引き起こしたくないのである。こうして、日記を書いている理由もそこにある。自分のために書いているのである。

 とにかく、いろいろと出た。症状を列記してみると、
1. 胸部の苦しさ
2. 呼吸の浅さ
3. 全身麻酔連続2回と3回目の手術のせいか、背中の腰のあたりのしびれというか、マ
 ヒしたかのように感覚が鈍い。おまけに腰が痛い。
4. 痰が詰るのか、呼吸弁に異常が起きるのか、呼吸困難になった。2ヶ月くらいその症
 状が続き一時は眠れない状態で不眠症になった。上なんか向いて寝ようものなら必ず呼
 吸ができなくなるくらいに発作症状が起きる。呼吸器科を受診したが、これまたビタミ
 ン剤なのだろう、精神安定剤をくれただけであった。でもそのうちに自分で対処方法を
 編み出した。症状が起きた時は、深呼吸をすることで回避したり、背中を丸めて、下を
 向いて少しずつ息をするという感じでうまく呼吸が出きるようになってきた。結局、精
 神的不安がさらに症状の悪化を助長することが解ったのである。
5. 右足の親指が痛風のように痛むのでそれも気になっている。たぶん、腰痛のせいだろ
 う。
6. 83個もリンパ節を除去したのだから神経を傷つけないはずはないのであって、結構な
 確率で排尿障害が起きるはずだ。・・・略。


7. 排尿障害は、少しあるような気がするが、手術後も特には心配するほどのことでもな
 いと思っている。でも、尿が溜まってくると押されるからか便意をもよおすのは今でも
 変わっていない。
8. 手足が冷える。とにかく冷える。知人にいただいた下着が私の命を救った。この下着は
 すごい高価なのもだが、それだけの値打ちがある、寒くないのである。宇宙服の下にもき
 いるそうだ。逆に、昔のようには大汗などかかなくなったし、毎日入る風呂が唯一の楽し
 みとなった。不幸転じて幸(?)となる。
9. 腹部の縫い目はとにかく硬い。腹切りするとこんなふうになることが初めて分かった。
 何でも経験してみて分かるのである。
10. 集中心がなくなった。いつも「癌」のことや症状のこと、便意等々いろいろなこと
 が頭にあってなかなか一つのことに集中できなくなった。でも時間が解決するであろ
 う、と楽天家らしく生きている。
11. 一時、腹部が気になっているせいか、どうしても背中が丸くなってしまい、だいぶ
  背骨が曲がったのではないかと思う。
12. 腰の横の鈍痛がとれない。横に曲げると筋肉痛のような痛みがある。神経に麻酔を
  かけてからだろうと思っている。
13. ステージは、3aである。5年生存率は70%強ということらしい。
  気長にやろう。この時点ですでに3年が経過した。(2004年6月)

使用した医療器具やケアー品
◆人工肛門を創設していたため、上行結腸からのストマ用ケアーにいろいろと使用した
   (別 記)
◆ 瀕便のためと肛門のゆるみ?のために、約2年くらい大人用のおむつを使用した。
  あまり厚手もだめ。かといって女性用では小さい。結局私がずうっと使い続け
 たのは、「快適パッド:フラットタイプ男女兼用30枚入り」(市価780円ピジョン株式
 会社)である。これは、むれも少なく薄型で大きさも手ごろであった。下痢にみまわれ
 た時も役に立った。薄型なので、必ず1枚はハンドバックに、サニーナと入れて持ち歩い
 ている。安心のためで、緊急にそれを使用したのは3度だけであった。とにかく、精神
 的なものが大きく影響するので重宝した。
◆ サニーナ
  便をした後、とにかくティッシュペーパーで拭けない。痛いのなんのってものじゃな
 い。痔の手術の後のようだ(私は実際には痔の手術を受けたことはないが、知人の真に
 迫る話はずいぶん拝聴していたので想像するに同じ状態である。そこで、病院で人工肛
 門にした時にストマのケアーで使用していたサニーナの事を思い出した。さっそくツル
 ハへ行ってみたところ、あるある! 泡サニーナ(800円)である。少々高いが背に
 腹は代えられない。ティッシュペーパーに泡を吹きつけてそっと拭くというか清潔にす
 るというか、赤ちゃんのおむつ替えを思い出してくれればオーケー!である。というわ
 けで、数本購入して、バッグに一つ、家に一つ、トイレに一つ、予備に一つ・・・と万
 全の態勢を敷いた。
平成14年1月11日
  ガン再発はみられず。便回数減、及び状態の回復がみられる旨の診断を受ける。
 Hb A1c 5.3で安定。
  以後、定期的に外来を受診することとなる。
復職時の診断書より
   平成13年2月6日〜5月7日 入院
   平成13年5月8日〜9月24日 通院 人工肛門自己管理 血糖値安定自己管理
   平成13年9月25日〜10月11日 再入院
   平成13年10月12日〜 通院〜現在に至る

手術
   平成13年3月1日 低位前方切除
   平成13年3月4日 縫合不全ありのため、回腸瘻造設
   平成13年9月27日 縫合不全治癒し、回腸瘻閉鎖

※手術説明より
   全身麻酔、輸血同意書
   術後:瀕便、下痢、吻合部狭窄、腸閉塞
   合併症対策:肝障害、腎障害 糖尿病による感染症や創の治癒遅延

手術の流れ(腸関係)
 ○ 前々日 7:00 下剤飲む
            日中 練習(深呼吸、うがい、痰の出し方、身体の動かし方等)
            ニフレック2000ml時間かけて飲む
 ○ 前 日 6:00 尿蓄
       9:30 浣腸
      10:30 座薬、手術部位剃毛、抗生剤テスト 点滴2本
手術のための準備品確認
      11:00 入浴、洗髪、爪切り
      15:00 浣腸
      20:30 安定剤服用・下剤飲、就寝(水分24時迄)
○ 当 日  6:00 浣腸

       7:00 座薬挿入、洗面・歯磨き・髭剃(化粧などはしない)
            一切飲食禁
            点滴開始、身に付けている装身具等をはずす(眼鏡も)
       7:30 安定剤服用(一口くらいの水可)
            排尿・着替え(長い病衣とパンツ1枚)
       8:00 鼻から管を胃まで入れる
       9:00 手術室へ
         ※ 尿管ドレインは、手術中に挿入する。術後、状況を見て抜く
           また、手術中に背中から麻酔用の管を入れる

【手術初見】
   高分化腺癌
   a1 ly1 u1 n1(+) stage …。a
 現在、抗がん剤内服、通院治療中

【処方】
外科
   フルツロンカプセル200†J(化学療法剤) クレスチン(免疫能向上剤)
   ムコスタ錠100†J(胃粘膜修復薬) ハルシオン0.25mg(睡眠道入剤)
   強力ポステリザン ラックビー微粒0.66g(整腸剤) タンナルビン(下痢止め、
   胃粘膜修復剤) アドゾルビン(下痢止め)
内科
   インシュリンN型(ヒューマンカート) 血糖値計測検査針・センサー
   アストミン錠10mg(咳止) ブルフェン錠100mg(解熱。消炎剤)
   テオドール錠100mg(気管支拡張薬) キョウリンAP2顆粒(鎮痛剤)
   ベリアクチン100倍散(鼻水、くしゃみ、痒み抑え) メジコン散10%(咳止め)
   フスタギン末(痰切り) マーズレンS顆粒(胃粘膜保護薬)
   イソジンガーグル30†N(殺菌消毒うがい薬)

耳鼻科
   メイアクト錠100†J(抗生物質:感染症治療薬)
   ムコダイン錠250†J(痰切、副鼻腔排膿)
   ニポラジン3†J(アレルギー疾患、喘息発作予防薬)

復職に必要な書類
 1. 手術前のXムP
 2. 内視鏡所見、転移の有無
 3. 手術報告書のコピー
 4. 手術標本の病理報告書
 5. 最近の検査成績
    ・胸部XムP、腹部CT、尿・便・末梢血生化学検査、免疫血清学検査
     腫瘍マーカー等 ・血糖値・HbA1c

               3年半経って、今     

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